■index ■profile ■schedule ■CD ■repertoire ■article ■data ■gallary ■link

museeTOWER RECORDS 99年3月20日発行

with every muscial reasons

ジョン・アップルトン 連載コラム

原文[英語]はこちら↓ The Rediscovered Art of Transcription by Jon Appleton

 これまでたくさんの音楽を聴いてきたが、私の音楽的好奇心を大いに刺激したのが、すでに四枚のアルバムをリリースし、日本中で演奏している音楽三昧の演奏だ。単純に彼らの演奏風景を描写してみせれば、ちょっとした関心をもてるだろうが、彼らの演奏を聴けば、喜びや賞賛の気持ちでみたされる。

 五人の演奏家からなるこのアンサンブルが演奏するのは、管弦楽作品の傑作を編曲したものだ。彼らが使用する楽器(ほとんどの演奏者は楽器を持ち変える)は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、古今東西の笛、民俗ハープ、ハープシコードで、場合に応じフレンチ・ホルンやいくつかの打楽器が含まれる。しかしこんな風に書かれただけで、聴かずに誰がこんな音楽の存在自体を信じることができるだろう。そんな音楽三昧を理解するには、過去三百年にわる西欧の芸術音楽におけるトランスクリプション(編曲)の世界がどんなものだったかをみていくのがよい。

 大昔、楽譜の印刷が一般的になる以前、演奏家たちはお互いの作品をたった一つしかない、貴重な、手で書き写した写本から学んだ。こんな方法でバッハはヴィヴァルディの音楽を知った。しかしながら、小さな町、あるいは宮廷の楽団では、国外から持ち込まれた音楽を演奏するのに十分な楽器を用意できなかった。そこで手元にある楽器に合わせて編曲することが一般的になった。作曲家たちはその時々において、音楽のアイデアを拝借したり、新しい文脈で使ったりしたのだった。

 19世紀になって管弦楽のための作品が増え、より大きな編成が考案された。こうしたオーケストラはヨーロッパの大きな都市に、そしていくつかはアメリカにあった。そんな都市に住むのでもないかぎり、ベートーヴェンの交響曲、チャイコフスキーのバレエのスコアなど、聴くことはできなかった。当時はラジオや録音もなく、地方で活動する音楽家の演奏でしか音楽を聴けなかった。やがて、編曲された音楽に新しい時代が、ピアノの普及もあって、訪れた。フランツ・リストはベートーヴェンの交響曲をピアノのために編曲した。多くの無名な作曲家が有名な管弦楽や室内楽の傑作を、家庭で演奏できるように、ピアノ、ピアノとヴァイオリン、木管のアンサンブル、弦楽四重奏用に編曲した。

 上述したような編曲は、音色やダイナミクスに関して厳しい制限がありながらも、原曲の雰囲気を伝えた。多くの演奏家は、モーツアルト、ハイドン、そしてベートーヴェンの四手のピアノのために編曲された交響曲では、メロディーやリズムを聴けても、一方でハーモニーや音色、ダイナミクスがうんざりするような打撃音のノイズに紛れてしまうことを認めるだろう。出版者やアマチュアの音楽家たちは確かに、20世紀後半の音楽学的研究が冒涜だとしたこうした編曲を、なにもないよりはましだと考えていたのだった。

 20世紀はじめの作曲家たちは違った考えをもっていたし、実際彼らはたくさん編曲した。たとえばラヴェルは大半の作品をピアノとオーケストラの両方のために書いている(ときどきどちらが先に書かれたのかわからない)。グリーグ、ドビュッシーそしてストラヴィンスキーらもまた主要な作品のほとんどに、ピアノや室内楽のヴァージョンを準備していた。ストラヴィンスキーがドビュッシーの自宅で、ピアノにむかって春の祭典のスコアをさらっていたというなこともあったようだ。

 このような編曲の大半は必要だから行われた。ほんとうに数少ない作曲家が、彼ら自身による管弦楽作品の編曲版で、その正当性をなんとか伝えるようとした。ラヴェル、ラフマニノフがそうだろう。もちろん職業編曲家が前世紀にはいて、仕事人として編曲をこなしたが、ほとんどの音楽家が編曲を、室内楽のアンサンブルでも原曲の感じが得られるよう労をつくし作品の本質にせまる仕事だとは思っていなかった。

 そして音楽三昧で編曲を手がける田崎瑞博が登場する。彼らの録音や演奏から得られる喜びを書くことはむずかしい。たとえば、ラヴェルの《ピアノ協奏曲》を聴いたことがなくても、この作品の5人の演奏家(ピアノがない!)による編曲を、チャーミングで、思慮深く、ときにナイーブでときにエキセントリックな作品として楽しむことができる。ラヴェルの音楽を聴いたことがなかったのなら、こんなに個性的な楽器の組み合わせで作品を描けそうな作曲家かなんて誰かを想像するのは難しい。

 しかし、田崎の編曲した作品の原曲を聴いたことがあれば、音楽の新しいヴィジョンを体験することができるだろう。作品についてよく知っていれば知ってるだけ、感動の度合いは大きくなる。音楽的経験を言葉で伝えるのはむずかしい(おそらくだから我々には音楽があるのだ!)。音楽三昧の編曲や彼らの演奏は彼らの天賦の才能によって創造されたものだ。たぶん音楽三昧への賞賛のほとんどは、すばらしいオーケストレーションを手がけた田崎にむけられたものだ。田崎は原曲の複雑な管弦楽のテクスチュアから作品の本質的な部分を聞き分けてきた。たった5つの楽器では、彼はなにかを犠牲にしなければならない。しかし彼は、原曲のオーケストレーションが持つ美しさや興奮といった、作曲家の本質的なヴィジョンを、気の利いたやり方で、かんたんな素材を使ってなんとか残そうとしている。

 チャイコフスキーの《眠れる森の美女》を編曲することはそんなにむずかしいことではない、というのも楽曲や単純な踊りのリズムを生かせば自ずとできあがってくる。しかしたった一組のヴァイオリン、ヴィオラ、ダブルベースを使って、弦楽器のセクション全体が醸し出す軽さを表現するのはむずかしいことだ。もっとむずかしいのは、ムソルグスキーの《展覧会の絵》を新鮮に響かせることだ、つまりラベルによる刺激的なオーケストレーションも、すばらしくピアニスティツクなオリジナルも我々はよく知っているからだ。田崎の想像力は、ムソルグスキーが用いた民俗の伝承に由来する源を、ディミトリ・ソクロフスキーがストラヴィンスキーの結婚でやったやり方で示しながら、そのふたつのヴァージョンをとび越える。

 いままでのところ音楽三昧は、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ショスタコーヴィッチ、そして最近のラヴェルの作品選集を含む、四枚のCDしか出していない。魅惑的で大胆というべき彼らのラヴェルの《クープランの墓》の編曲は、ムソルグスキーの展覧会の絵と同じくピアノとオーケストラの版の両方がよく知られている。しかしラヴェルがトッカータとフーガのオーケストレーションにためらいを感じているかのようなのに反し、田崎はユーモアと明るさをもって大胆に取り組んだ。

 音楽三昧がやるべきことはたくさんある! 私は最近彼らが原曲のエキゾチックな雰囲気を生かしたファリャの《恋は魔術師》を演奏するのを聴いた。私は、音楽三昧の最近のコンサートで、子供たちが、心を奪われ、完全に彼らの音楽のとりこになっているのをみた。

 日本人は、彼らがヨーロッパやアメリカの演奏家のまねにしかすぎないとしばしば非難されてきた。不思議なことだがこのような偏見は日本社会の中にしか存在していない。よく、つつましさや表情を顔にださないという習慣のせいで、西洋ではすばらしい音楽がつくられるためにはらわれたリスクを邦人演奏家は侵さないのだ、と言われている。音楽三昧はこうした偏見やあやまった考えすべてくつがえす。彼らは21世紀の音楽界にとってすばらしい贈り物で、世界中で祝福されるべきだし、日本人の大変な誇りとなるべき存在だ。

------------------------------------------------------------------

ジョン・アップルトン Jon Appleton : 作曲家、ダートマス大学教授(アメリカ) Jon Appleton's Homepage:http://music.dartmouth.edu/~appleton/
'99-4-4|index|