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編曲者ノート W

シリーズNo.22に寄せて〜 

田崎瑞博

 小説や絵画などには普通『題名』がついています。音楽においても、第何番交響曲と呼ぶ他に、『田園』や『悲愴』など、題名からある情景や感情を思い描けるものがあります。ドビュッシーでいえば、『亜麻色の髪の乙女』あるいは『沈める寺』など、詩的、絵画的なイメージを想起させるものがいっぱいあり、ピアノ作品のほとんどに名がつけられています。しかしその最晩年に書かれた《12の練習曲》には、『全5指のための』とか『3度のための』とか実用的な言葉ばかりが並び、およそ何か我々の想像力を高めてくれそうな文字が見当たりません。もちろんピアニストの技巧を極めるのが目的なわけですから、ある程度無機的な題名を付けないといけなかったのかも知れません。ところがおそらくこの曲集は、技巧のためと同時にピアニストにとっての最も高度な音楽性を要求しているものと思われます。そこにはついに彼が辿り着いた音世界の独自の境地が広がり、誰も体験したことのない、斬新で未来的な香りの空間に我々を誘います。

 「練習曲」。この題名に秘められた彼の真意を思う時、音というものの無限の可能性と音楽のもつ幅の広さに感嘆するばかりです。本当はそれぞれとても美しい題名があってもおかしくないのに、あえてそれらしいものを付けず、しかも「ドレミファ」という最も芸術から遠い機械的なモティーフから始まるこの曲集。そこには音符の連結のみですべてを言い尽くせるというドビュッシーの揺るぎない自信が満ちあふれています。

[2002年1月]


編曲者ノート V

シリーズNo.21に寄せて〜 

田崎瑞博

 ピアノという楽器は極めて完成度の高い楽器です。古典派以降の作曲家はこの楽器を自由に扱い表現することに長けていました。広い音域、均一な音質、豊かな音量から、ありとあらゆる表現方法が創り出されていき、それがまた各作曲家の個性とあいまって独特の音楽語法が誕生していきました。旋律や和声の色合いももちろんですが、いかにもピアノらしい動き、ピアノでなくては表現し得ない語り口に色々な作曲家の特徴が現れています。ベートーヴェンの即興的なパッセージ、シューマンの波のようなうねり、リストの華麗な輝き、ブラームスの堅牢な建築、ラフマニノフの官能的な香り、枚挙にいとまがありません。そういった中で、本日演奏されるショパンとドビュッシーは、これまた格別のピアニズムを感じさせる作曲家です。単純極まりない旋律から思いもよらない美しさを紡ぎ出すショパン、一音聴いただけでその人と分かる幻想的な世界を持つドビュッシー。それぞれに超人的なテクニックに裏づけされたピアニズムが光り輝いています。さて、このピアニズムというものはまさにピアノのためにのみ編み出されたものであって、他の楽器には極めて転換しにくいものです。およそ"編曲"が行われる最も多い動機は「必要に駆られて」であって、多くの場合、オーケストラ曲など大規模な多声部音楽をピアノ一台で演奏出来る利便性から生まれてくるものです。ピアノのために書かれた作品はピアノで弾けば良いではないか、そんな側面も当然持ち合わせていることでしょう。

 ここでまた違った面から演奏という行為を眺めてみましょう。一人で演奏出来るそのほとんどの機会は鍵盤楽器奏者にのみ与えられていて、他の多くの楽器奏者は一人で演奏することはまれです(もちろん無伴奏――はありますが)。つまり、演奏には二通りあって、ひとつは一人で完結するもの、もう一つは複数の人間によって形成されるものという訳です。実はここに大きなキーワードが潜んでいます。演奏というものは作品との対話から出発するものですからピアニストの目の前には常に作曲家の大きな存在があるのですが、それと同時に「自己」との孤独な対峙が待ち受けています。ところがアンサンブルにおいてはその作曲家や自己以前に、生きた、生身の人間が常にああでもないこうでもないとお互いを干渉し合いながら一緒に進んでいくことになります。どちらが良い悪いではなく、作品への道すじの環境がまるっきり違うのです。言い換えれば、最も悪い例としてはピアニストは独りよがりになりやすいし、アンサンブルは妥協の産物となってしまいがちです。反対にただただ作品に対して真直ぐに目を向け、本質に迫るべく精進し続けられることが可能なら環境は問題ではありません。真に優れたピアニストというものは、決して自己陶酔型ではなく、さりとて冷薄な計算の産物でもなく、ピアノの共鳴板の裏側に作曲家の肖像がほのかに浮かんでくる、そんな血のかよった音楽を提供してくれるものだと考えます。おそらく皆様方はそんな奏者に出会った体験をお持ちで、もちろん私にも幸せなことにそんなことがいっぱいありました。そういったピアニスト達の音楽の構築の仕方というのは、実は良いアンサンブルが音楽を造っていくのと全く変わらないのです。ぶつかり合いでも妥協でも勝手な思い込みでもなく、余分な贅肉を捨てひたすらに作品の本質に立ち向かっていく姿に、演奏というパフォーマンスの共通の理念があります。その理念が共有できる作品である限り、どんな"ピアニズム"であってもその山を超えていく、その計り知れない価値を味わうことが出来る事こそ、"音楽"を"三昧"する最高の歓びだと感じています。

[2001年7月]


編曲者ノート U

〜おへんろシリーズ20番札所に寄せて〜 

田崎瑞博

 ひとにはそれぞれ作品との"出会い"が用意されています。私にとって本日の2作品は特に想い出深いものです。プロコフィエフの6番、7番ソナタをリヒテルの実演で聴いた時の感動は生涯忘れ得ない衝撃的なものでした。ショスタコーヴィチの5番に至っては、私が生まれて初めて生のオーケストラを聴いた時(息子さんのマキシム・ショスタコーヴィチ指揮!)の曲です。おそらくは世界中で最も素晴らしい出会い方をしたことになります。それにひきかえ、今日初めてこれらの曲と出会う方がもしいらっしゃったら・・・とは申しませんが、私達の様式(!)もいまや海外でも注目されているくらいですから、作品の本質に迫ろうとしているひとつのスタイルとして認識していただけたら幸いです。

 さて、ショスタコーヴィチの第5番について少しお話させて下さい。「形式主義」と決めつけられソヴィエト政府当局からの路線変更を要望されたショスタコーヴィチは、前衛的な音の扱いを改め、古典的でより分かりやすい大衆受けする作品としてこの曲を発表し、文字どおり生き残りに成功しました。人生の苦悩から歓喜へ、あるいは困難をのりこえての革命の達成など、ヒロイズムを大いに満喫できるこの曲は大きな評判を呼びました。反面、成立のいきさつやあまりに明快なストーリー性から、単なる政治的なプロパガンダ用であるとか、作曲家の本領を発揮したものではないとかの声も聞かれるようになりました。

 ここからが問題です。音楽は言葉による思想を持ち得ません。あるハーモニーやある旋律から誰かが何らかの意味を受け取ったとしても、言語による特定をすることは本質的だとは言えません。どのような場合においても作曲家は音芸術の上でしか本当の思想を語ることはないのです。この作品の音像の向こう側に、ある政治体制や横暴な力、陳腐なメロドラマ、短絡な勧善懲悪物語などを見る事が果たしてできるでしょうか。

 戦争や革命といった生々しい記憶の中から誕生したこの作品は、そういったこととはまるで無縁の、造型の美しさと偉大な神秘性についてのみ語られるようになる。そんな日が必ずやってくるに違いありません。そのような想いをお互いのものとしたい、そのための本日の出会いであると私は望んでいます。

[2001年1月]


編曲者ノート

〜おへんろシリーズ19番札所に寄せて〜 

田崎瑞博

 劇音楽一つとバレエ音楽が三つ。本日演奏される曲はいずれもが、いわば「実用音楽」です。シンフォニーやソナタと違い音楽そのものだけで聴かせるものではなくて、違う芸術との融合によって成立するものです。舞台上で繰り広げられる視覚的な芸術・パフォーマンスに対し、それを聴覚的芸術で支える、また一つの別の芸術形態がここに誕生するわけです。そこには、それぞれの芸術をすり合わせるための綿密な打ち合わせと沸き上がる感性のぶつかり合いがあったことと思われます。その二人の芸術家〜例えばチャイコフスキーとバレエの台本作家プティバがお互いの芸術から何を感じ取っていき、何を自分の作品に反映させていったかという想像のもと実際の創作現場を思い浮かべると、大いに興奮させられるものがあります。

 さて、「実用音楽」においては、その作品全体の色調も重要ですが、中の一曲一曲のキャラクターの明確さがポイントとなります。特に言葉による説明がされないバレエにおいては「何を表現しているのか」という点が分からないと退屈なものとなってしまいます。私達はバレエを視覚上から捕らえ、そしてそれと同時に聴覚にもある意味"補助的"な刺激を受け、その表現の豊かさから二つの芸術の融合を感じ取る事が出来るのです。

 それでは、本日の"バレエのないバレエ音楽"のように、補助的でさえあった聴覚のみで果たして"バレエ芸術"が成立するのでしょうか。実はそこにはここまでで述べられていないもう一つの芸術の存在が隠されています。それは言うまでもなく受け手側、つまり皆さんの「想像力の芸術」です。そこでは何をどのように想像しようが一人一人の自由に任されています。ある人は素晴らしいバレリーナの動きを瞼に浮かべ、ある人はおとぎ話の登場人物になりきり、またある人はそれらとは無縁の自分なりのイマジネーションの世界へと入り込んでいきます。4人の作曲家達は皆それぞれ違った手法を使って見事に音の世界を造り上げてゆきます。叙情的・ロマン的なグリーグとチャイコフスキー、近代的な和声を駆使しながら実に明解至極のプロコフィエフとショスタコーヴィチ。音楽からのインスピレーション〜そのヒントをこれらの天才作曲家達は豊富に伝えてきます。そこには「実用音楽」でもというよりも、「実用音楽」であるからこその大胆で個性豊かな素材が詰まっています。そして皆さんの心の中に宿り始めた"情景"が大きく育ち、また色鮮やかに映し出される時、もう一つの意味での総合芸術が力強く完結するのです。

[2000年7月]


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